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長崎地方裁判所 昭和45年(ワ)91号 判決 1974年6月26日

長崎市辻町五五〇番地

原告 西村好澄

<ほか二名>

原告ら訴訟代理人弁護士 松永保彦

長崎市桜町二番二二号

被告 長崎市

右代表者市長 諸谷義武

長崎市桜馬場町七一番地

被告 白井清夫

被告ら訴訟代理人弁護士 藤原千尋

右当事者間の損害賠償請求事件について、当裁判所はつぎのとおり判決する。

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一各当事者の求める裁判

(原告ら)

(一)  被告らは各自

(1) 原告西村好澄に対し一四一四万一七九九円とこれに対する昭和四二年一一月一六日から、

(2) 原告西村勇夫に対し一〇〇万円とこれに対する前同日から、

(3) 原告西村美和子に対し五六三万〇九四七円とこれに対する昭和四四年七月二日から

いずれも完済に至るまで各年五分の割合による金員を支払え、

(二)  訴訟費用は被告らの負担とする、

との判決ならびに第(一)項について仮執行の宣言。

(被告ら)

主文と同旨の判決。

第二各当事者の主張

(原告らの請求原因)

一  原告西村好澄の両眼失明

原告好澄は、原告西村勇夫、同西村美和子の二男として、出産予定日より二ヶ月早く、昭和四二年四月六日長崎市内の宮副助産院において出生したものであるが、出生時の体重は一七〇〇グラムでいわゆる未熟児であったため、出生日の翌日長崎市立市民病院小児科に入院し、入院中保育器に入れられ養育されて、同年七月六日退院した。

ところが、原告好澄は同病院において保育されている間に、後水晶体線維増殖症(Retrolental Fibroplasia、以下「R・L・F」と略称する。)といわれる疾患にかゝり、両眼の視力を完全に喪失した。

二  被告らの身分関係

被告白井清夫は、当時長崎市立市民病院小児科に勤務し、医師として原告好澄入院中同人の診療を担当したもの、被告長崎市は、右病院の設置経営者であり、被告白井を雇傭し同病院小児科の医療業務に従事させていたものである。

三  被告白井清夫の過失責任

1 (後水晶体線維増殖症について)原告好澄の失明の原因となったR・L・Fの発生原因、症状の進行形態、その予防対策等については、公刊されている文献等によれば、一般につぎのようなものと認識されている。

(一) R・L・Fは、未熟児(出生時体重二五〇〇グラム以下で、胎外生活に対する適応が不完全な新生児)のうち体重二〇〇〇グラム未満のものを一般に保育器に収容して、細菌感染を予防しつゝ、温度、湿度、空気中の酸素濃度を調節して保育するという方法がとられるようになって以来、その発生が顕著となって注目されるに至った疾病であって、それは、保育器中の酸素濃度(器内空気に対して酸素の占める割合)が三〇パーセントを超えることとなる酸素を供給したり、高濃度から低濃度に急激に降下させ又は供給を急激に中止したり、長期間にわたって酸素を供給したりすると発生するといわれ、結局高濃度酸素環境に馴化した後に起った酸素濃度の著明な低下が低酸素症を若起した結果として発現するものと考えられている。

(二) R・L・Fの臨床経過は、活動期、恢復期、瘢痕期の三つに大別されるが、活動期における病変の進行経過はおゝよそつぎのとおりである。

(イ) 酸素により未発達な眼の狭い血管が拡張(静脈は二倍に拡張)浮腫し、動脈は迂曲する。

(ロ) 次に網膜血管が新生増殖し、増殖した血管は互に吻合して糸球体(結合組織)の像を呈するに至る。このとき網膜に斑らに曇る灰色像が生じる。

(ハ) 次に神経線維層は新生血管により肥厚し、ついに網膜前出血、硝子体内出血をきたし、網膜の新生血管は結合組織の増殖に伴い硝子体中に侵入する。

(ニ) 次に網膜が皺襞をなして剥離しはじめる。最初辺縁に始まり、次第に増大し、網膜襞が後部水晶体内に突出し、視力障害ないし失明を招来するに至る。

以上の病変は、生後三週間から五週間の間に発生し、六ヶ月頃には瘢痕期に移行してしまう。

前記恢復期とは、右病変の進行がある時点で停止し自然治癒に向って反転進行する時期のことである。また瘢痕期とは進行した症状が固定化する時期をいうが、その程度によって一度から五度にわけられ、水晶体後部に完全な組織塊が形成される五度の時期に入ると、失明は確定的なものとなり手のほどこしようがないといわれている。

(三) 発症の予防措置、発症後の治療方法(失明の予防方法)に関しては、つぎのようにいわれている。すなわち、R・L・Fは高濃度酸素環境下に発症するものであるから、(イ)新生児の生命維持上不必要な酸素の供給を慎しむことが第一で、仮死状態、チアノーゼのある場合以外は使用しない、(ロ)酸素補給をする場合も、保育器中の酸素濃度は、できるだけ三〇~四〇パーセントまでにとゞめる、(ハ)一たん酸素補給をはじめたらむやみにこれを中止することは危険であるから、徐々に酸素濃度を下げ、次第に酸素環境からの離脱に馴化する等の酸素供給管理上の注意を尽すことによって発症を予防することができる。不幸にして発症した場合も、早期(可逆性のある活動期)に発見し、適当な治療方法を講じれば症状の進行をくい止め、失明という最悪の結果発生を防止することができる。酸素が至適濃度で補給されているかどうかを正確に知り、したがってR・L・Fの発症を早期に発見するためには、出生直後から少くとも三ヶ月間、望むべくは六ヶ月間は定期的(週一回程度)に眼底検査を行うことが必要であって、眼底検査による以外早期発見の方法はない。

検査の結果、眼底に初期変化が見られるときは、再び高濃度酸素環境に戻し、その後徐々に濃度を下げて補給を中止する方法をとるほか、活動期初期にある症状はつぎのような治療(予防)方法を講じることによって、視力障害の発生を防止することができるが、悪くても弱視程度の結果にとゞめることができる。その予防方法としてはつぎの方法があげられる。

① ビタミンE、ACTH、副腎皮質ホルモン(コルティゾン等)の投与

② レントゲン照射又は外科的手術による水晶体の後部膜の破砕又は除去

③ 新生児に貧血症状がある場合は、保育器から出す前の時点における輸血

2 (未熟児の保育医療を担当する医師の注意義務) (一) 医師は、一般に、患者の求めに応じて診察、治療を行うというにとゞまらず、広く国民の健康な生活を確保するという公的な使命をになっており(医師法第一条)、かつまた人の生命と健康を守るという職業上の性格からして、日々進歩する医学の一般的水準に追いつくよう研究努力すべき義務がある。そして、医師の注意義務を考えるに当っては、当該医師の個人的知識とか技術、あるいはその医師の所属する例えば長崎県といった限定された地域における医学上の知識や技術は基準にならないのであって、広く日本の医学水準を基準に判断すべきである。

被告白井は小児科医として原告好澄の保育医療の任に当ったものであるから、同人にはまず日本の小児科医としての水準的知識と技術を身につけることが要求されており、高まってゆく一般水準に追いつけないからといって、それは許されることではない。

(二) しかるところ、原告好澄が市民病院に入院し酸素補給を受けて保育された昭和四二年四月当時の、わが国における小児科医学は、すでに酸素補給とR・L・Fの関係、R・L・Fの発生経過とその予防あるいは治療について、さきに1項で述べた程度のことは明らかにしえていたのである。すなわち、R・L・Fが高濃度の酸素を供与しうる保育器の出現によってあらわれた症状であることは、既に昭和一七年(一九四二年)にテリー(Terry)という学者によって発表されて注目を引いたところであり、わが国において昭和四一年までに出版され、R・L・Fに関して記述している文献は、原告らの目にふれたものだけでも左記のとおり決して少くない。

植村恭夫・湖崎克著「小児眼科トピックス」昭和四一年一月 金原出版(甲第六証号)

植村操・加藤謙編「臨床眼底図譜」昭和三六年三月 南山堂(甲第二〇号証)

詫摩武人者「小児科学」昭和三二年一月 東西医学社(甲第二一号証)

桐沢長徳・浦山晃著「小児の眼疾患」昭和四一年二月 金原出版(甲第二二号証)

医学シンポジウム第16集「未熟児」昭和三二年四月 診断と治療社(甲第二三号証)

以上のように多くの出版物が出てR・L・Fは小児医学会でも問題にされ、小児科医にとって臨床的研究の基礎は十分提供されていたのである。

(三) したがって、被告白井は、まず一般的に、小児科医として、R・L・Fの発生原因(酸素との関係)、P・L・Fの発生経過、未熟児に対する酸素供給の仕方、R・L・Fの早期発見および治療方法等について、昭和四二年以前に当然十分な研究をすべき義務があった。そして、具体的には、未熟児である原告好澄を相当長期間にわたり保育器に入れ高濃度酸素環境の下で保育したのであるから、好澄がR・L・Fにかゝるかも知れないこと、その場合適宜の措置を怠れば失明するに至ることを予見し、右予見しうる結果の発生を未然に防止すべき注意義務があったといわなければならない。

3 (被告白井の過失)ところが被告白井は、医師の一般的注意義務に違背して、昭和四二年四月当時小児医学会の一般的知識であった1項で述べたようなR・L・Fについての知識を欠き、したがって原告好澄についてR・L・Fの発症を予見することも、失明という重大な結果発生を回避すべき措置を講じることもしなかった。

仮に、なにがしかR・L・Fについて知るところがあったとしても、つぎのような点で、被告白井の過失は明らかである。

(イ) 酸素補給管理上の過失

被告白井は、本人尋問に際して「酸素濃度を四〇パーセント以下に保って、徐々に濃度を下げてゆく方法をとればR・L・Fの発症はないだろうと考えた。」と供述しているが、市民病院の作成している看護日誌(甲第一六号証)と体温表(甲第一八号証)に記載されている原告好澄に対する酸素補給量と濃度の下げぐあいを対照表にしてみると別紙甲・酸素補給表のとおりである。この表によって明らかなように、看護日誌と体温表では記載内容がほとんど異なり、信憑性に乏しいが、仮に信用できるとしてこれによって酸素補給の仕方をみるに、例えば五月一三日は午前四時一リットル、同一〇時五リットル、午後〇時三リットル、午後四時四リットル、同月一四日は二リットル、同月一五日は一・五リットル、同月一六日は午前四時以降五リットル、四リットル、三リットル、二リットルというように一日のうちでも上下があり、あるいは同じ時期に急激に補給量を上下させるなどしている。また、好澄に対して普通の場合よりも多量の酸素を供給したことは被告白井自身が本人尋問において認めるところであるが、仮死状態、チアノーゼ等のない場合にまで必要以上の酸素を供給したものと思われる。

以上を要するに、被告白井の酸素補給の仕方は、酸素とR・L・Fの関係についての知識の乏しかったことによるものであろうが、ずさんというほかなく、この点に過失が認められる。そして、この酸素補給管理上の過失が、原告好澄のR・L・Fの発症に影響していることは当然推認しうるところである。

(ロ) 定期的眼底検査を怠った過失

R・L・Fの早期発見、早期治療のためには定期的眼底検査が必須であるところ、被告白井はR・L・Fの発症を予見していなかったため、自らR・L・F発症の有無を確認する目的で好澄の眼底を調べたことはない。尤も、一般に、小児科医ではR・L・F発見のための眼底検査を有効に行うことはむつかしいし、R・L・Fかどうかの判断自体もむつかしいとされているが、そうであるとしても、当時市民病院には眼科がありそこには眼科医である三島恵一郎がいたのであるから、被告白井としては同人に依頼して眼底の定期検査を行うことも容易にできたはずである。ところが、同被告はそのような措置を全くとらなかった。

そもそも、未熟児の医療保育の任に当る小児科医は、眼科医の協力がなければ保育器による未熟児の保育ないし眼疾患の管理は十分になしえないことにかんがみ、眼科医の協力が得られるような体制の確保に努力すべきであるのに、被告白井は市民病院の経営者である被告長崎市にそのような要請をしたことすらなかったのである。原告好澄のR・L・Fの発症時期は生後一ヶ月ごろと思われるので、眼底検査が有効適切に行われていたなら早期に発見することもでき、治療を行うこともできたはずである。

(ハ) 治療措置を講じなかった過失

被告らは、仮にR・L・Fが発見されてもこれに対する有効な治療方法はないかのようにいうが、前述(1項(三))した薬剤の投与、輸血、レントゲン照射、外科的手術等当時知られていた方法は、なるほど万能的、あるいは確たる治療方法ではないにしても、例えば癌について確たる治療方法はいまなお無いが早期発見、早期治療によって助かる例の多いように、早期に発見されて前記治療方法が施術されていたなら、少くとも失明という最悪の事態は避けえたはずである。ところが、被告白井は、早期発見の努力を怠ったため、その当然の結果とはいえ、これらの治療方法もなんら講じなかった。

(ニ) 退院時における保護者に対する指導を怠った過失

医師法第二三条は「医師は、診療をしたときは、本人又はその保護者に対し、療養の方法その他保健の向上に必要な事項の指導をしなければならない。」と規定している。仮に、被告白井にR・L・Fについて認識予見するところがあり、また好澄入院中その発症を認めなかったものとすれば、退院時その保護者である原告勇夫又は同美和子に対し「保育器の中で酸素の補給を受けて育った好澄は、少くとも生後六ヶ月間にR・L・F発症のおそれがあるので、退院後も一、二週間に一度は市民病院その他の眼科で定期的な眼底検査を受けなさい。」という指導をすべき義務がある。しかるに、被告白井はこうした注意を全く与えなかったため、両親が好澄の眼の異状に気づいたときは、R・L・Fはすでに瘢痕期にまで進行し視力を取り戻すすべはなかったのである。もし原告勇夫らが、被告白井からR・L・F発症のおそれについて早い時期に教えられるところがあったなら、取りうる手段もありえたであろうし、したがって弱視程度にとゞめることもできたと思われる。

4 (被告白井の責任)以上のとおり、原告好澄の失明は、被告白井の業務上の過失に起因するものであるから、同被告は民法第七〇九条により原告らに対し後記損害を賠償すべき義務がある。

四  被告長崎市の使用者責任および過失責任

1 (使用者責任)原告好澄の失明は、被告白井の業務上の過失に基づくものであるが、また被告長崎市の設置する稲佐保健所の所長にも義務懈怠がある。すなわち、保健所長は医師、保健婦、助産婦等をして未熟児の保護者を訪問させ、必要な指導を行わせるべき法的義務があり、好澄についてそのような措置と適切な指導がとられていれば、原告好澄の眼疾患はより早く発見され、失明の結果を回避することも可能であったと思われるのに、原告らの住所地を管掌する稲佐保健所長は医師、保健婦らを訪問させる等の措置をなんら講じなかった。

よって、被告長崎市は、被告白井および稲佐保健所長の使用者として民法第七一五条により、原告らに生じた後記損害を賠償すべきである。

2 (過失責任)長崎市立市民病院は、医療法第四条にいう総合病院である。総合病院の総合病院たるゆえんは、診療科の各科が有機的に連携を保って助け合うことにより、単科では容易に究明できない原因を明らかにして適切な治療を行えるという点にある。そうであればこそ患者側もまたそのように理解して総合病院を選び、満幅の信頼をよせて診察治療をうけるものである。したがって、総合病院として市民病院を経営する被告長崎市は、小児科において保育器を設置し酸素を補給して未熟児の保育を行う以上、その酸素の影響によってR・L・Fの発症をみる患者が出ることを知るべきでありかつ当時知ることができたのであるから、R・L・Fの発症を早期に発見し早期治療によって失明という不幸な結果発生を防止するため、眼科医をして小児科医に協力させ、一、二週間に一回の割合で未熟児の眼底について定期検査を行うという医療体制をとゝのえるべき注意義務がある。さきにもふれたとおり、好澄入院当時市民病院には眼科があり、三島恵一郎という眼科医がいたのであるから、小児科医では眼底検査やR・L・Fの発見が無理だというなら、右のような眼科医の協力体制をとるべきであり、また容易にとりえたはずである(ちなみに、同病院では本件訴提起後は眼科医の協力体制をとっている)。

ところが、被告長崎市は右の注意義務を怠り、病院経営者として必要な措置をとらなかったものであるから民法第七〇九条によっても、原告らに対し損害賠償義務を負う。

五  原告らの損害

1 (原告好澄の損害)(一) 両眼を失明したことは死に勝るとも劣らぬ重大な傷害であり、好澄はこれから先長い生涯を、親兄弟の顔すら見ることのできぬ暗黒の世界に一人して生きていかなければならない。視力回復の見込みのない現在、通常人としての勉学も結婚も望み得ず、楽しかるべき生活のすべてが奪い去られた。その苦しみは筆舌に尽し難く、何をもってしても償いうるものではないが、強いて金銭をもって慰藉するとすれば金五〇〇万円が相当である。

(二) 好澄は両眼失明により労働能力を一〇〇パーセント喪失した。右傷害の発見された昭和四二年一一月一五日当時、好澄は満一才に達しないものであったが、〇才の者の平均余命は六七・七四年、その就労可能年数は満二〇才から満六〇才までの四〇年間とみるべきであり、またこの場合の将来の逸失利益は全国全産業平均一人当り給与総額(昭和四三年度における年間給与総額は六六万四八六〇円)を基準として算出するのが相当である。

そこで以上を計算の基礎にして、好澄が将来労働によって取得すべくして喪失した利益の現価をホフマン方式により中間利息を控除して算定すると九一四万一七九九円となる。その計算式はつぎのとおり(たゞし、一三・六一六〇は就労開始期までの二〇年に対するホフマン係数、二七・三五四七は稼働年限六〇年に対するホフマン係数)である。

665,405×(27.3547-13.6160)=9,141,799

2 (原告勇夫、同美和子の精神的損害)原告勇夫、同美和子夫婦は、好澄退院に際して「異常のない立派な赤ちゃんです。」と言われ、喜びにあふれて被告白井医師や看護婦らに心からお礼を述べ好澄を引き取って帰宅した。しかし、生後半年たっても好澄が物を握ろうとしないことに不安を抱き、昭和四二年一一月一五日長崎市内所在の金光、広瀬両眼科を訪ねたところ、好澄はR・L・Fにかゝり両眼は失明しておりすでに手おくれで視力回復の方法はないと診断され、そのとき、眼の前が真暗になり気も狂わんばかりであった。夫婦はその日直ちに市民病院に飛び込み被告白井に真相を問いつめたが、同被告は「眼科に定期検査をさせなければならない規定はない。」とか「いのちとひきかえにしたと思い、あきらめてくれ。」とかの暴言をはき、詫びる誠意すら示さなかった。予防の方法を尽すべきは尽しての上の言葉なら別である、原告ら夫婦は被告白井の余りの言葉に対しいきどおりと悲歎のあまり断腸の思いであった。それから眠れぬ夜が続いた。好澄は両親の顔に手を当てて父母を識別する。本症特有の眼玉飛出しのため、好澄は幼い指で両眼をしきりに押し込もうと苦斗する。その姿は見るにしのびず、勇夫と美和子は自殺すら思いつめたのである。

両名は、九州大学医学部を訪ね、手術による視力回復に一縷の望みをかけ、自らの片眼を提供してもよいから手術はできないかと尋ねたが、回復の見込みはないとの診断であった。

好澄の将来を思い、被告白井の態度を思い起すとき、原告勇夫、同美和子の苦しみははかり知れないものがある。両名に対する慰藉料は各一〇〇万円が相当である。

3 (原告美和子の逸失利益)原告美和子は昭和三四年五月一六日から長崎県庁職員として勤務していたが、好澄が失明したため、母親である同人が付添い監護する必要に迫られ、やむなく昭和四四年七月一日退職した。同人は退職当時六等級五号俸(月額三万二四七八円)と調整手当九七四円、計三万三四五二円の給与を受けていた。したがって、もし退職しなければ年間四〇万一四二四円の給与所得をあげえたはずである。同原告は退職当時満三〇才であったから満五五才に達するまでの二五年間就労できたと思われるが、少くとも好澄が一八才になるまで付添い監護する必要があるから、その期間は退職時(好澄満二才)から一六年間ということになる。よって、右を計算の基礎とし、ホフマン方式により中間利息を控除して、好澄の失明のため原告美和子が得べくして失った収入の退職時における現価を算定するとつぎのとおり四六三万〇九四七円となる。

401,424×11.5363=4,630,947

六  結語

よって被告らそれぞれに対し、(1)原告好澄は慰藉料五〇〇万円と逸失利益九一四万一七九九円の合計一四一四万一七九九円およびこれに対する失明の事実が明確になった日の翌日である昭和四二年一一月一六日から完済の日まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の、(2)原告勇夫は慰藉料一〇〇万円とこれに対する前同日から完済まで(1)と同一の損害金の、(3)原告美和子は慰藉料一〇〇万円と逸失利益四六三万〇九四七円の合計五六三万〇九四七円およびこれに対する同原告が退職した日の翌日である昭和四四年七月二日から完済まで(1)と同一の損害金の、各支払を求める。

(請求原因に対する被告らの答弁および反論)

一  請求原因事実に対する認否

1 請求原因第一項中、原告好澄が原告勇夫、同美和子の二男として、八ヶ月早産の未熟児で昭和四二年四月六日(一八時一五分)出生したこと、翌七日(一一時四〇分)に長崎市立市民病院小児科へ入院し、同年七月六日退院したことは認める。しかし、好澄の生下時体重は一七〇〇グラムではなく、一四〇〇グラムであり、市民病院入院時の体重は一二六〇グラムであった。また市民病院で保育器により保育されたのは同年六月一六日まででその後は保育器外で育てられた。市民病院で保育されている間にR・L・Fにかゝったとの点は否認し、その余の事実は知らない。

2 同第二項の被告らの身分関係は認める。

3 同第三項の被告白井の過失責任に関する主張はのちに陳述するとおり争う。被告白井に過失責任はない。

4 同第四項に主張の被告長崎市の責任は全部否認する。

同項中1の使用者責任の項で原告がいう稲佐保健所長の過失を否認する。昭和四一年一月一日施行の母子保健法第一九条は、なるほど、保健所を設置する市の市長は、養育上必要があると認めるときは、医師、保健婦、助産婦等をして未熟児の保護者を訪問させ必要な指導を行わせるものとする旨規定しているが、原告好澄は出生後直ちに市民病院に収容され、爾来三ヶ月間専門的な看護医療を受け、未熟児の域を脱して退院したものであって、右法条にいう「養育上必要がある」場合には該当しない。

稲佐保健所は昭和四二年九月二六日保健婦を原告勇夫宅に派遣して好澄の様子を尋ね、発育良好で異常はないとの回答を得たが、父勇夫が結核の登録患者であり、結核感染のおそれがあったのでツベルクリン反応検査の受診をすゝめた。同年一〇月七日には文書をもって育児相談に来所するよう勧奨したが原告らは一度も来所したことはなかった。原告らは、保健所長の非を口にしながら、自らは子の健康の保持増進に努力を怠るものである(母子保健法第四条参照)。また、原告勇夫、美和子両名は、好澄が市民病院入院中重篤に陥った際病院より来訪を要請しても一度も来院せず、退院に際しては、退院後一ヶ月以内に来院受診するよう指導したが、退院後四ヶ月一〇日を過ぎた一一月一五日に来院して眼の異常を訴えただけで、それまで主治医である被告白井は一度も右両名と面接したことはない。

つぎに同項中2において、原告らは、被告長崎市の市民病院における診療体制上の過失責任を主張するが、昭和四二年当時は、日本医学の小児科はもとより眼科の分野においても、未熟児網膜症に対する療法などが確立されておらず、また眼底検査をすることは極く一部の学者によって研究されつゝあった段階であり一般化されていなかったものであるから、被告長崎市が、眼科が小児科に協力して定期的眼底検査ができるようにする医療体制をとらなかったことをもって、被告長崎市の過失を言うのは失当である。その詳細は、被告白井の過失責任に関してのちに反論するところと同一であるから、これを引用する。

二  被告らの反論

被告らは、被告白井清夫が未熟児である原告好澄に対してとった診療方法は、小児科医師として通常要求される注意義務に違反するところのない極めて適切な処置であり、死の危険に瀕した好澄の生命をとりとめた点において原告らから感謝こそ受けれ、非難される筋合のものでないことをここに主張する。原告らの非難は、未熟児に対する認識の欠如と後水晶体線維増殖症(R・L・F)についての独断に出発するものであるので、まず被告白井が原告好澄に対してとった具体的診療措置について、つぎに、未熟児一般、未熟児保育における酸素の意義、R・L・Fに関する当時の医学的知見等について述べ、原告ら主張の失当であることを明らかにする。

1 原告好澄に対する診療経過

(一) (診療経過の概略)原告好澄は、昭和四二年四月六日午後六時一五分に出生したが、生下時体重一四〇〇グラムの未熟児であったため、翌七日午前一一時四〇分長崎市立市民病院に入院した。入院から退院に至るまでの診療保育経過の概略は別紙乙(一)表のとおりである。

好澄は入院診療時において体重一二六〇グラム、体温摂氏三三・五度、呼吸数五八毎分(正常四〇~五〇)、脈搏一〇〇毎分(正常一二〇~一五〇)で心音緩徐、呼吸数増加の傾向がみられた。主治医として好澄を担当した被告白井は、好澄の未熟度が高くかつ健康状態が極めて不良であることを勘案して同人を直ちに閉鎖式保育器に収容し、保育器内の温度を摂氏三二度、湿度八〇~九〇パーセントに保ち、保育器内に酸素二リットル毎分(器内酸素濃度二八~三〇パーセント)を流入し、哺育養護することとした。その後、白井は、保育器内の温度、湿度、酸素濃度を調節し、併せて感染防止、栄養補給に慎重な配慮を払いつゝ好澄の経過を見守ったが、四月八日には好澄の呼吸数は七八毎分と著しい増加を示し、ついで無呼吸発作があらわれ、未熟児にとって極めて予後の悪い呼吸障害症候群の症状が出現した。また五月一三日、一六日にも呼吸停止、無呼吸発作があり全く重篤な状態に陥った。その容態と診療経過は前記別紙乙(一)表のとおりであるが、このように原告好澄の症状は不良重篤にして生命の安否が気づかわれる状態で、したがって、その哺育養護は極めて困難であったが、被告白井らの処置宜しきを得て次第に一般状態良好となり、六月一七日には保育器外で保育するに至り、七月六日退院の運びとなったのである。

なお、原告らは被告白井が原告好澄の眼底検査をしなかったことを強調しているが、同被告は昭和四二年四月二五日、同年五月一七日、同年七月四日(このときは小児科の富永医師とともに)の三回にわたり眼底検査を実施した。未熟児には未熟児網膜症以外にも眼の細菌感染もあるので、注意深く眼底を検査したが、いずれも異状を認めていない。また退院時の指導については前述のとおりである。

以上原告好澄に対する被告白井の酸素補給その他医療上の措置は、後述するところからも明らかなように、当時の小児医学界における知識と技術を十分に発揮したもので、なんらの落度もない。

(二) (市民病院における診療体制)ちなみに、市民病院小児科における当時の診療体制について附言する。診療責任者は被告白井清夫で、担当主治医として原告好澄の診療にあたったのであるが、昭和四二年四月七日から同月三〇日までは前田恭昌医師、同年五月一日から六月三〇日までは伊達木伸男医師、七月一日から同月五日までは富永弘徳医師が勤務交替し、診療は原則として月、水、金曜日は右各医師が、火、木、土曜日は被告白井が当り、相互に密接な連絡をとり協議の上実施した。また、市民病院の小児科未熟児室には、専属の看護婦が勤務しており、同人らは、担当主治医の被告白井をはじめ前記前田、伊達木医師の指示に従って、原告好澄を保育器に収容し、保育器の温度、湿度、酸素供給量の調節管理および栄養補給等に従事したのである。

2 未熟児について

(一) (未熟児の致命率)未熟児は、(1)熱の産生が少く、体表面積が比較的大きいことや皮下脂肪組織が少いことなどにより、保温が必要である、(2)呼吸中枢が未熟、胸部が軟弱、呼吸補助筋の発育が不良で、肺組織そのものも未熟である、(3)胃の容量は小さく、噴門の閉鎖が不完全であるため胃内容物の逆流が起りやすい、また哺乳後胃が膨満して、横隔膜の運動(呼吸運動)を障害しやすい、(4)血管壁は脆弱でブロトランビン(血液凝固因子)値の低下をみることが少くなく、したがって出血を起しやすい、(5)肝、腎、神経系の発達も、小さい未熟児ほど不良である、(6)感染を受けやすく、また受けると重篤に陥る、といった身体的に特異な存在であり、その不利な身体条件のために致命率も極めて高い。新生児死亡の九〇パーセントは未熟児である。未熟児の致命率と最も密接な関係を示すものは生下時の体重であるが、これらの関係については別紙乙(二)の(1)(2)(3)各表のとおりである。これらの表によって明らかなとおり、生下時体重が一五〇〇グラム未満の未熟児の致命率は驚くべき高率を示しており、この点は原告好澄の生下時体重が一四〇〇グラムであったこととの関係で注目すべき点である。

(二) (未熟児と呼吸障害症候群)新生児が生後数日以内に死亡する場合、しばしば呼吸困難を伴っている。呼吸数、呼吸のリズム・型などに異常を来たしており、その異常が生理的適応現象からはっきり逸脱しているようなときは、これを一括して呼吸障害(呼吸窮迫)症候群と総称している。本症は未熟児に多く、生下時体重一五〇〇グラム以下では一〇〇パーセント近く呼吸障害が存在すると言っても過言ではない。そして、未熟児死亡の半数以上の原因は、別紙乙(二)の(4)表に示すように、肺拡張不全、肺出血、肺炎などで、臨床上呼吸障害を主徴とするものである。また、この呼吸障害症候群の発生率、同症と未熟児の予後(致命率)については別紙乙(二)の(5)(6)各表のとおりである。

3 未熟児に対する酸素供与の必要性および酸素と後水晶体線維増殖症の関係等について

(一) (未熟児保育における酸素供与の必要性)以上にみたとおり、未熟児は呼吸障害、低体温その他外界の環境に適応する能力に欠けるところが大きく常に生命の危険にさらされているため、未熟度の高い新生児はこれを保育器に収容し、温度、湿度、酸素濃度等を調節し併せて感染防止、栄養補給に留意して生命の保持に努めるのが原則である。そして、前述のとおり生下時体重一五〇〇グラム以下の未熟児に等しく発現する仮死、チアノーゼその他の呼吸障害症候群に対しては酸素の投与が必須の要件であることは、現在の小児科医学界の定説であり、その投与の方法等についてはつぎのように言われている。

「東大小児科治療指針」(昭和四〇年一二月一五日発行改訂第五版四九四頁)には、「チアノーゼや呼吸困難のない未熟児に対しても総て酸素を供給すべきか否かについては議論があるが、われわれは現在のところルーチンとして酸素の供給を行っている。出生後暫くの期間における未熟児の血液酸素飽和度は低値を示し、また肺の毛細管網の発達が不充分なために、酸素の摂取が不良であることが予想され、一度無酸素症に陥れば無酸素性脳傷害や、無酸素性脳出血を起す可能性が考えられるからである。酸素を与える期間は生下時体重一二〇一~一五〇〇グラムは一、二週間を目やすとしている。」と記されている。

加藤英夫(「小児科ハンドブック」昭和三九年二年一日発行)も原則として未熟児には酸素の補給を行うと記している。

東北大学産婦人科の九嶋勝司(「治療」五〇巻一一号二六八五ページ、昭和四三年一一月)は、保育器に収容するような生下時体重二〇〇〇グラム以下の児には、出生直後は呼吸障害がなくとも原則として三〇~四〇パーセント程度の酸素吸入を行っている、と述べている。

日本大学小児科の馬場一雄教授(「未熟児の保育」四三ページ、昭和四一年一一月三〇日金原出版発行)は、チアノーゼや呼吸困難があれば酸素を与えるべきであるとし、R・L・Fを予防するため酸素濃度を六〇パーセント以下とし、通常四〇パーセント程度にとゞめる、と述べている。

いずれにしても、呼吸数六五毎分以上の頻度呼吸、胸骨陥凹、呻き声、無呼吸発作、チアノーゼの発作などの呼吸困難症状があれば、酸素を与えるのは当然だと考えられ、十分な酸素を与えないときは、死亡または永久的な脳障害(脳性麻痺、精神薄弱)を招来することが明らかである。すなわち、未熟児の呼吸障害には酸素の供与が不可欠である。

投与すべき酸素量に関して、最近呼吸障害のある未熟児では、酸素を制限すれば血中の酸素濃度が十分上昇せず、酸素不足により死亡率が上昇することが知られている。例えば、合併症のない未熟児と、呼吸障害症候群の未熟児の動脈血の酸素張力(PO2)を比べると、別紙乙(二)の(7)表のとおり呼吸障害症候群の症例では、一〇〇パーセントの酸素を吸入してはじめて正常の未熟児が空気呼吸しているときと同じくらいのPO2になる。すなわち、呼吸障害の強い未熟児に対しては、従来供給する酸素濃度の目やすとされてきた四〇パーセントを超える酸素を供給すべきだと考えられるようになってきたのである。

(二) (酸素供与とR・L・Fの関係)原告らは未熟児のR・L・Fが高濃度酸素環境下において発生すると主張するが、R・L・Fと酸素の関係は、今日においてもいまだ解明途上であって、しかく単純ではない。まず、R・L・Fと酸素との関係について否定的な見解あるいは事例が発表されている。たとえばつぎのような例である。

長崎大学医学部眼科の吉岡久春(「日本眼科学会雑誌」五九巻七号九四五ページ、昭和三〇年七月)は、妊娠三六週の早産児で生下時体重二一五〇グラムの児の網膜膠腫(右眼)と診断摘出された眼球を詳細に剖検し、その病理組織所見からR・L・Fと先天性束状網膜剥離とは同一疾患と考えざるを得ないと結論している。

馬場一雄教授は、前掲著書において、「未熟児に対する酸素の授与が殆んど行われなかった時代から時々報告されている先天性襞状網膜剥離の大部分がR・L・Fにほかならぬと考えている。」と述べ、酸素供給に関して前記引用のとおり述べて「失明の危険をおそれて、酸素の授与を制限したため貴重な人命を失うことをこそ警戒すべきである。」と警告している。

名古屋市立大学眼科の馬嶋昭生などは、酸素療法を全く行わないで発生した症例を報告しており、原告提出の三宅廉著「新生児とその疾患」二五二ページにも酸素の授与なしに網膜障害が起りうる記載がある。

R・L・Fの発症が酸素と関係ありという学者の中にも二つの立場があり、しかもこれらは相反する説である。その一つは、酸素濃度四〇パーセント以上の高濃度酸素環境下に長い間いれておくことが発症の原因となるという考え方であり、他の一つは、R・L・Fは未熟な神経組織の無酸素に対する反応であり、その無酸素は酸素不足の未熟児を十分な期間十分な酸素の中に入れておかなかったり、また高濃度酸素の中に入れた児を急に大気中に出すことによって起るので、R・L・Fの治療はむしろ酸素を十分に与えた方がよいという考え方である。本症が無酸素性網膜傷害(Anoxic Retinopathy)と呼ばれるのは、後者の見解に由来するのである。原告らも、R・L・Fが過剰な酸素により発生するといゝながら、しかも本症の予防ないし治療法として高濃度酸素環境に戻すべきであると述べていることからすれば、右相反する二つの説のあることには異論はないはずである。

以上のとおりR・L・Fの発生原因は、原告好澄が市民病院に入院した昭和四二年当時はもとより、現在においても明らかではない。しかも、被告白井が原告好澄に対してとった酸素補給の仕方は、別紙乙(一)の経過表記載のとおりであって好澄の症状に対応し、未熟児保育上の医学的常道に従った方法であり、なんら問題とする余地のないものである。

未熟児保育上の酸素補給の意義については前述したところであるが、R・L・Fあるいは未熟児網膜症は、未熟児診療の技術が開発され、未熟児の生存率が高められてきたところに、生命の保持と裏腹の関係で不幸にして発生する疾病であって、未熟児医学の遅れている国においては未熟児の多くは死亡してしまう反面、網膜症の発生はみられない。この間の事情につき、国立小児病院の植村恭夫眼科医長は昭和四四年一一月要旨つぎのように語っている。

「アメリカでは昭和一五年から二五年ごろにかけて未熟児を育てる施設が発達し、生存率が高まるとともにこの未熟児網膜症が多発し、乳児失明の最大の原因として騒がれた。こうした施設の普及が遅れた日本では最近ようやく大きな問題になってきたわけで、日本でも未熟児施設の完備していない地方ではまだこうした例は少い。今後施設がよくなるほどふえてくるだろう。血管が十分に発達していない未熟児の網膜が保育器の酸素に反応して起るため、アメリカでは一時保育器内の酸素濃度を低くした。しかし、このため失明児は減ったが、呼吸障害児の生存率がさがり、同時に脳性マヒもふえた。つまり、酸素が多すぎても不足でもだめ、生か死か、目をとるか脳をとるか、という状態にある。治療法もまだ研究中の段階で、これを防ぐには未熟児を産まないこと、すなわち在胎中母体の健康管理に注意すべきである。」(朝日新聞昭和四四年一一月三〇日)

つまり、痙性麻痺とR・L・Fとは二律背反の関係にあり、これを酸素投与との関係で示せば別紙乙(二)の(8)表のとおりである。

(三) (R・L・Fの発見、治療方法に関する当時の医学水準)原告らは、被告白井が好澄入院中眼科医との連携の下にその眼底について定期的検査をしなかったこと並びに定期的検眼をしていれば原告好澄のR・L・Fを早期に発見することができ、早期治療をすれば失明を免れたものであることをもって、被告らの責任を追及する。しかし、わが国において未熟児に対する酸素療法とR・L・Fの関係について臨床的研究を明らかにし、定期的検眼の必要性がはじめて提唱されたのは、昭和四一年秋の学界における植村恭夫、奥村和男の研究発表においてであり、その論文の抄録が出版されたのは昭和四二年の秋であること、昭和四二年当時においては、未熟児網膜症について定期的に眼科医による検眼をなすべきであるというような認識と関心は、日本の小児科医はもちろん眼科医においても乏しく、日本医学の水準としては一般化していなかったこと、それゆえ酸素療法を受ける未熟児の眼底検査は、わが国では施設の整った大病院で、しかも未熟児医学のパイオニアたる小児科医と眼科医の揃った極くわずかのところでしか行われておらず、特に日本医学の指導的地位にある東京大学医学部小児科においてすら左様なことは実施されていなかったこと、以上いずれも本件において証人となった日本における未熟児医学の権威である奥村和男、小宮弘毅、植村恭夫および小児医学の権威である和泉成之の各証言によって明らかである。すなわち、原告のいう眼科医との連携による定期的検眼は、当時いまだ未熟児医学の研究段階で極く一部の人によって試みられていた方法といって過言ではない。

また仮に、眼底検査の結果未熟児網膜症の発症が発見されても、その治療方法は今日に至るも確立されていない状態である。原告主張の薬剤の投与その他の方法も有効かどうかわかっていないし、最近に至り光凝固法なる療法が開発されているが、右療法による後遺障害等についても疑問なしとせず、まだ研究段階の域を脱していないのである。この点についても、前記証人らの証言により明らかである。

したがって、被告白井が昭和四二年当時小児科医として日本医学の一般水準に達していないかの如き原告らの主張は失当である。

第三各当事者の提出援用した証拠等≪省略≫

理由

一  原告好澄の失明とその原因について

原告西村好澄が、原告西村勇夫、同西村美和子の二男として、出産予定日より二ヶ月早く、昭和四二年四月六日出生し、未熟児のためその翌日長崎市立市民病院小児科に入院し、保育器に収容されて保育看護を受けたのち同年七月六日退院したことは当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫を綜合すると、原告美和子の出産予定日は昭和四二年六月一〇日であったが、同年四月四日自然破水が起こり、同女は、長崎市梁川町の宮副助産所において、同月六日午後一時ごろから人工的に陣痛を促進し分娩所要時間三時間を経てその日の午後六時一五分好澄を出産したこと、好澄の出生時の体重は一四〇〇グラムであったこと(母子健康手帳に「一七〇〇グラム」とあるのは、「在胎期間五六週」の記載と共に誤記と思われる。)が認められる。

また、≪証拠省略≫によれば、原告勇夫、同美和子は、市民病院退院後日時を経過するうちに好澄の視覚反応が普通より遅れているのではないかとの疑念を抱くこともあったが、早産未熟児のせいであろうと考えてこれを看過し、退院後四ヶ月(生後七ヶ月)を経過した一一月中旬好澄の眼の異常を明らかに認識し、同月一五日ごろ好澄を伴って長崎市の金光眼科(医師金光二郎)、広瀬眼科、市民病院眼科(医師三島恵一郎)を前後して訪問受診したところ、いずれの医師からも「両眼の前房は甚だ浅く、虹彩は萎縮して後癒着を生じ、右眼は散瞳状態を呈して水晶体後方に白色反射あり、左眼もほゞこれに近く、両眼共に正常眼底は見えないという症状を呈しており、これは後水晶体線維増殖症(R・L・F)と呼ばれるもので、すでに好澄の両眼の視力をほゞ完全に喪失していてもはや視力改善の望みはない。」と診断されたことが認められる。そして、鑑定人植村恭夫の鑑定結果によると、原告好澄の両眼が右のような症状を呈し視力を喪失するに至ったについては、病理学上いくつかの原因が考えられるが、前認定の好澄の在胎期間および生下時体重、保育器に収容されて酸素療法を受けている点などに鑑みて、未熟児網膜症(R・L・Fと実質上同義、後述の理由により、当裁判所は現在一般化したこの名称を使用する。)によるものと推認される。

二  市民病院における原告好澄に対する保育医療上の措置と好澄の生育経過の概要

市民病院小児科に入院した原告好澄について、被告白井清夫が主治医として、その保育医療の任に当ったことは当事者間に争いのないところ、原告らは、原告好澄の失明は主として市民病院入院中の保育医療上の、特に酸素供給管理上の過誤に起因する旨主張するので、入院中の原告好澄の容態とこれに対し被告白井らがどのような措置を講じたかをまず概観することにする。

成立について争いのない甲第一六号証(看護記録)、同第一八号証(体温、心音数、呼吸数等のグラフを中心とする看護記録、以下便宜「体温表」という。)、同第一五号証の一(指示簿および診療録の一部)、検証の結果、証人松尾小夜子の証言、被告白井清夫本人尋問の結果(第一、二回)を綜合すると、つぎの各事実が認められる(時間の表示は二四時間通し時間である)。

(1)  原告好澄が市民病院に入院したのは、四月七日一一時四〇分で、入院時の検査観察の結果は、体重一二六〇グラム、身長四七・五センチ、体温三三・五度(摂氏、以下同じ)、心音数一〇〇、呼吸数五八(いずれも一分当り、以下同じ)、皮膚は赤色を呈してチアノーゼなく、心音は緊張して良好、四肢の運動は活発、声は小さいがよく泣く、という状態であった。

被告白井は、好澄の体重、在胎期間に鑑み、また体温が低くかつ呼吸数が普通より多い点から保育器収容の必要を認め、直ちに好澄を閉鎖式保育器(Ⅴ五五アトム未熟児保育器、カハン型)に収容し、酸素二リットル(一分当り、以下同じ)を器内に放流した。また同被告は、生後四八時間を飢餓状態におくことゝし、翌八日一九時から強制栄養を開始し、まず五パーセント糖液を注入して様子を見たところ、嘔吐その他の異状を認めなかったので、看護婦に対し同日二二時以降ミルク二c.c.を二時間おきに補給し、異常がなければ一回の注入量を一日二c.c.宛増量するよう指示した。

(2)  その後好澄は、時に呼吸促迫の傾向を示しあるいは排便がないため浣腸が施されたほかは、一四日まで嘔吐その他特段の異状を示さなかった。ところが、同月一五、一六日の両日にわたり、注入したミルクのほとんどを嘔吐し、このため一時ミルクの注入を中止したが腹部が膨満して元気もなくなり、一七日に入ると心音も不整となったため、強心剤を注射したり、ミルクに換えて五パーセント糖液を二時間おき三回注入、その後レーベンスミルクに切りかえ水薬を注入するなどの措置をとった。その後も、若干の嘔吐症状はあったが一般状態は次第に回復し、同月一三日ごろから一・五リットルに切り下げていた保育器内に放流する酸素量を同月二四日には一リットルに切り下げ、翌二六日更に〇・五リットルに下げたうえ二七、八日ごろ酸素の補給を中止した。

ところが五月六日二二時には好澄の顔面にチアノーゼが現れ、口から泡を出し、呼吸数六二、心音一四〇となったため酸素(放出量不明)を放流したところ、チアノーゼは徐々に消退するに至った。その後五月一一日ごろまで時に呼吸促迫、チアノーゼを呈したため酸素は一リットル程度継続して放流したが、その間嘔吐なく体重の増加が認められ、四肢の運動も活発であったため、一一日一六時酸素流量を〇・五リットルに切り下げた。

ところが、五月一三日四時ミルク三〇c.c.注入後、好澄はまた顔面にチアノーゼを呈し無呼吸状態となったため、酸素一リットル放流するとともに心臓マッサージを施行、チアノーゼは漸次消退していたところ、一〇時前再び顔面蒼白となりチアノーゼがあらわれ、ついで呼吸停止、心音緩徐の重篤状態に陥った。これに対し被告白井やその指示を受けた看護婦らは、酸素の流量を五リットルに上げ、ビタカン〇・三c.c.、リンコシン三〇ミリグラムその他の薬剤を投与、一〇時四〇分体温三五・八度、呼吸数四八、心音一六八で不整という状態にやゝもちなおした。ついで、一二時酸素量を三リットルに切り下げたところ、一四時再び無呼吸状態が見られたため、流量を四リットルに上げた。その後も荒い呼吸が現れたりしたが格別なこともないため、ミルクと薬剤の投与を継続しつゝ、一四日一四時酸素量を二リットルに下げた。

同月一六日四時呼吸困難に陥ったため、酸素量を五リットルに上げたが、心音は緊張して良好であったため、呼吸困難の軽快に応じて八時には四リットル、一一時には三リットル、一六時には二リットル、一七日一六時には一リットルと漸減し、一八日酸素の補給を試みに中止したが特別の変化は認められなかった。

一九日一六時再び酸素一リットルを放流し(その理由は明らかでない。)、ミルクの注入量も二二あるいは二四c.c.から三〇c.c.に増量三時間おきの注入を試みたところ、その後の経過は良好で四肢、躯幹の運動活発となったため、五月二〇日酸素の投与を中止して様子をみることにした。その後、好澄は、再び酸素投与の必要もなく、次第に哺乳力は増大し、肢体の運動も活発となって六月一七日一時保育器外に出されるまでに至り、漸次器外環境に馴化して同月二〇日前後から退院まで保育器外で保育された。

(3)  原告好澄入院期間中、眼について異状が認められたのは、四月二四日夕方眼脂が、また五月一七日右眼にやゝ多量の眼脂が認められたことのみであるが、これらは水薬(デキストロマイシン等)の点眼により一、二日のうちに消失し、被告白井らの観察した限りでは他に眼疾患は認められなかった。

(4)  以上の原告好澄の容態の概要、酸素投与量および入院期間中の体重の変化を一覧表にすれば、おゝむね被告ら主張の別紙乙(一)表のとおりとなる(たゞし右認定に相違する点を除く)。

以上の各事実が認められ、右認定を左右するに足る証拠はない(酸素の流量に関しては、原告指摘のとおり看護記録と体温表、さらには診療費計算の基礎となる入院診療実施カードではそれぞれの記載に差異があるが、右各書類の記載形式、その性格に徴すると看護記録の記載が最も正確性が高いものと考えられる)。

三  被告白井の過失責任について

1  はじめに

医療行為は、患者にとってはかけがえのない身体の健全性にかゝわり、ときに人の生死を左右するほどに重大な意味をもつものであるから、これにたずさわる医師は、専門家としての高度の医学知識に基づき自己の取りうる最善を尽して患者の生命身体の安全をまもるべき義務をになっていること、右義務に反してとるべきでない措置をし、とりうべき必要な措置をとらないことによって、手だてを尽せばまもり得たはずの患者の生命身体の健全性を害する結果を招来したときは、当該医師が法律上の過失責任を負担すべきことは当然である。ただ、具体的にある医療行為が悪い結果を招来したとき、医師に過失責任を問うことができるか否かは、当時の医学的水準(これを明らかに下まわる医療措置が行われゝば過失ありといえる。)、当該医師のおかれている社会的地域的環境(事実上の専門医か否か、医療施設・研究施設の整った環境下にあるか否か)、医療行為そのものに内在する特異な性格(各種の医療制度や人的・物的制約の下で、刻々複雑に変動する病理現象に有限の知識と能力で対処するものであるから、ある程度の試行錯誤が不可避的であること)などを綜合的に考え合わせて、当該医療上の措置または不措置が社会的非難に価いするか否かによって、これを決すべきものと考える。

さて、原告好澄に両眼の視力喪失という結果をもたらした未熟児網膜症あるいは失明にまで至る病状の進行が、好澄に対し被告白井のとった医療上の措置または不措置に起因するものか否か、そしてその措置または不措置が当時の医学水準その他に照して過失行為といえるか否かが本件における最大の争点であるが、この点についての判断の前提となる未熟児網膜症に関する医学的知見をまず概観し、つぎに原告主張の各過失の存否について検討を加えることにする。

2  未熟児網膜症に関する医学的知見

≪証拠省略≫を綜合すると、未熟児網膜症に関する医学的知見あるいはわが国における医学的対応は、おゝよそつぎのようなものであることが認められる。

(一)  病態(臨床経過)および発生頻度

未熟児網膜症の病態はおゝむね原告ら摘示のとおりである。すなわち、最も早期に現われる変化は、網膜血管の迂曲怒張が特徴的であり、網膜周辺浮腫、血管新生(静脈の異常分岐)がみられる。ついで網膜に灰白色の斑点、出血斑による混濁を認める。さらにすゝむと神経線維層は新生血管、神経膠又は結締組織によって肥厚してくる。そして網膜前出血及び硝子体内出血を来たし網膜の新生血管は結合組織の増殖を伴って降起し、内境界膜を超えて硝子体の中に侵入する。硝子体に侵入した新生組織は血管に富み、この血管から血液成分の漏出が起るが、漏出物はやがて線維組織に変っていく、この線維組織の瘢痕性萎縮および硝子体の吸収のため網膜は辺縁部から皺襞をなして剥離しはじめ、次第に増大し、最も進行した状態では線維組織が水晶体の後面を覆い、網膜は完全に剥離するに至る。また前房は浅くなり、あるいは虹採後癒着を作ってこれが緑内障の原因となる。末期にまで進行すると視力は甚しく障害され、または完全に失明する。

以上のように症状が進行する時期を一般に活動期(急性期)と呼ばれる。発症例の七割から八割近くは通常生後四、五ヶ月までの活動期の途中で進行を停止反転し、自然に治癒してしまうが、残りのものは進行した症状が瘢痕化して視力障害を残す。瘢痕期の症状は程度に応じて一度から五度に分けられ、四度、五度の重いものは失明し、これに至らぬ二度、三度のものは、屈折異常、近視、斜視等の障害を残すものが多い。

本症は、その大部分が未熟児に発生し、殊に在胎期間三二週以下、生下時体重一六〇〇グラム以下の未熟児において発生率が極めて高いが、まれには成熟児にも見られる。発症の時期は、早いものでは生後二日目、遅いものは八ヶ月という例もあるが、大部分は生後三週目から五週目の間に発生し、生後五、六ヶ月までには瘢痕期に移行する。発生頻度は、時と所によって異なり、一概にはいえないが、わが国の施設のとゝのった未熟児施設における近時の推計では管理未熟児のほゞ五~一六パーセントに発症し、失明にまで至る例は一パーセント内外である。

(二)  歴史

本症は一九四二年(昭和一七年)アメリカのテリーという医学者が未熟児の水晶体の後部に結締組織の形成されているのを発見、後水晶体線維増殖症(Retrolental Fibroplasia)と名づけたのが最初の報告例といわれ、保育器が一般的に普及使用されるようになった一九四五年から七、八年の間にアメリカをはじめ、オーストラリア、スウェーデンを中心に西欧諸国に大発生し、小児失明の主要な原因(二二~五六パーセント)となるに及んで注目された。その間の研究を通じて前記解剖組織学的所見や臨床症状が明らかになり、R・L・Fは本症の末期症状を指称するにすぎず、多く未熟児の網膜に発症する疾患であることから未熟児網膜症(Retinopathy of Pre-maturity)という呼称が相当であるといわれるようになり、近時わが国でもこの呼称が用いられるようになった。テリー以後の数多の報告例やアメリカを中心とする研究の結果から、未熟児保育器の出現によって発生し、ことに高濃度の酸素療法と深い関係があることが明らかになり、それまで酸素をふんだんに(器内濃度一〇〇~八〇パーセント)投与していたのを、チアノーゼのある児についてのみ、あるいは濃度を四〇パーセント以下に、制限して投与するようになった一九五四年から、一九五五年(昭和三〇年)にかけて発症例は著しく低下し、以後失明例の報告は全く姿を消した。その間アメリカを中心とする各国の医学者が、本症の原因、予防および治療法等について模索研究し一九四九年から一九五六年頃にかけて多数の研究成果が発表されたが、後述のとおりいまだ発生機序を明らかにしたとまでは言えず、またそ予防法、治療法を確立するまでには至らなかった。

一方わが国においては、戦前未熟児学あるいは新生児学と呼べるほどの分野が確立していなかったところへ戦後の混乱期が続いて、未熟児保育の知識と技術は西欧諸国に比して相当遅れをとり、はじめ保育器として行李コタツを利用し、ついで乳母車に湯タンポを入れた原始的保育器が用いられたが、昭和二〇年代後半ごろからようやく賛育会病院や日赤産院などで近代的未熟児保育が手がけられるようになった。このころからわが国でもアメリカなどにおける未熟児網膜症が一部に知られ関心を持たれるようになったが、昭和二七年から三〇年までの知られた未熟児三四八例中失明または視力障害のものは一例も発見されず、わずかに初期変化と思われるものが賛育会病院に二八例報告されているに過ぎない。その原因は、わが国ではいまだ保育器が幼稚なことゝあいまって酸素の使用量がアメリカなどに比べてはるかに少いためと考えられた。

昭和三〇年を過ぎるころから全国的に閉鎖式保育器による未熟児保育が漸次普及し、酸素療法も一般に行われたが、外国において酸素の切りつめにより発症例が激減したため未熟児網膜症が文献に登場する頻度が少くなったこと、わが国においてはわずかにたまたま外来患者などに発見された瘢痕症状を残存する眼底図や剖検例が眼科専門誌に若干発表される程度で、産科または小児科医による発症例の報告は皆無またはこれに近い状態であったため、昭和四一年ごろまで一般の小児科医、産科医はもとより眼科医にとってすら、未熟児網膜症は、いわば歴史的疾病として臨床的には忘れられた状態であった。たゞ未熟児に対する酸素補給に関しては、外国例に学んで、後述のとおり一般的に、四〇パーセントを超える高濃度の酸素補給を警戒すべきことや、急激な補給中止を慎しむべきことなどが未熟児保育の常識として関係医師の間に普及した。

その間、植村恭夫など少数の眼科医は、産科医・小児科医などから依頼されてたまたま眼底検査をした小児に、時々外国文献の明らかにする未熟児網膜症と同一の瘢痕症状例が発見されることから、わが国の酸素濃度四〇パーセント以下にとゞめる未熟児保育法によっても失明または視力障害児の発生する可能性を認め、その瘢痕が果して未熟児網膜症の発症の結果なのか、他の病因によるものかを明らかにするため、昭和三九年ごろから、保育施設で保育中の未熟児について生後間もない時点から定期的眼底検査によって追跡した結果、やはり相当数のものに未熟児網膜症の発症が認められ、その約八割は自然に治癒するが残りの約二割は弱視または失明に至ることをつきとめた。すなわち、わが国では発症しない、たとえ初期変化は発生しても視力障害を残さないと一般に考えられて発症が看過されたものはもとより、あるいは先天性眼疾患(例えば先天性トキソプラスマ)として処置され、あるいは網膜膠腫(網膜に発生する悪性腫瘍)と誤診されて眼球摘出を受けたものゝ中に、かなりの未熟児網膜症が含まれている可能性を明らかにした。

折りから昭和四〇年一一月小児のための綜合医療施設として開設された国立小児病院(東京都世田谷区)の眼科医長になった植村恭夫は、同病院の小児科医奥山和男と協力して、病院発足以来同病院で保育する未熟児について週一回程度の定期的眼底検査を実施し、その臨床結果は昭和四一年一〇月ごろ開かれた小児科学会の未熟児新生児研究会(分科会)で報告されたほか、植村は同年一月発行の「小児眼科トピックス」、同年七月発行の「小児の眼科」において、外国の発症例は酸素療法の制限によってその数が激減したことは確かであるが、本邦では少数ながら失明をもたらす重症例があとをたゝず、また軽度の瘢痕を残し、弱視となっている例も少くないことを警告するとともに、早期発見早期治療のため定期眼底検査(未熟児室、未熟児センターにおける眼科的管理)の重要性を強調した。

これらの報告や警告を契機に、わが国においても、ようやく未熟児医療に関与する医師の間にその後徐々に未熟児網膜症に対する関心が高まりをみせはじめ、後述のとおり昭和四四、五年から未熟児に対する定期的眼底検査を実施する施設が増加しはじめ、これと前後して新しい治療法も開拓されるに至った。

ちなみに、外国でも一九六〇年(昭和三五年)ごろになって、酸素投与の制限によって未熟児網膜症の発生が少くなって以来、それ以前に比べて未熟児の死亡率は高くなったことを警告する学者が現れ、再び酸素制限緩和の機運が生れ、一九六七年(昭和四二年)ごろから呼吸障害を伴う未熟児保育に酸素(ときに一〇〇%の酸素)が必要である以上、眼科医は小児科医に協力して再び多発が予想される未熟児の失明に対する危険性を最少限にして治療できるようにしなければならないという警告が出るに至っている。

(三)  発生原因

未熟児網膜症の発生原因ないし発生機序は、現在に至るもいまだ明らかではない。前述のとおり一九五〇年前後のアメリカその他西欧諸国における大発生を契機に、臨床的に本症の発生原因が研究され(その後の数年間に諸種の見解が発表され)たが、まず本症は国によって、また同一国内でも施設によって発生状況が異なることから、保育術式の中に原因があり、殊に酸素投与と深い関係があることが認識され、当初未熟児の網膜血管が高濃度の酸素の毒性に反応して収縮し、その機点として血管の増殖浮腫が発生するものと考えられた。しかし、また別の学者は、本症が高酸素環境下において、あるいはその離脱直後に発生せず、多くは高濃度酸素環境を離脱したのち二四~四八時間後に起こること、初期変化は再び酸素を供給することによって却って消退すること、酸素療法を全く受けない未熟児にも発症例があること、無呼吸発作(したがって血中の酸素低下)を非常に起こしやすい生下時体重一四〇〇グラム以下の未熟児に発生率が高いこと、一般的に過剰の酸素が酸化酸素系を不活性化して酸素の利用を抑制するため、酸素濃度が急激に低下するとある程度の無酸素症が起こるという基礎的事実が認められること等から、本症は相対的低酸素傷害であると説明した。本症の発生に酸素が重要なかゝわりを持つことは一般に是認されながらも、右のように見解の対立があるが、後者の見解が有力であるかのようである。

その他酸素以外の主要な原因として主張されたものを列記するとつぎのとおりである。

(1) 未熟児の未熟性、すなわち網膜において出生後成立する外的条件に適応する能力のないこと

(2) 過度の温度、湿度

(3) 牛乳栄養における電解質不均衡(牛乳は多量の塩類を含み、これが網膜浮腫を容易にする。)

(4) 内分泌が関与し、ACTH(副腎皮質刺激ホルモン)、コルチコトロピン等の欠如(代謝障害)

(5) ビタミンEの欠如

(6) 過剰のビタミンD摂取

(7) 抗生剤の使用と関係がある

(8) 母体の不顕性感染

以上のとおり本症の発生原因については諸説があり、これらの諸説はわが国においても紹介された。しかし、その後この点に関する研究には見るべき進展はなく、わが国では昭和四二、三年ごろから、一般に、本症にとって最も重要な因子は、未熟児網膜の未熟性にあり、酸素の多寡が一つの大きな発症の誘因であること、発症および症状の進行・消退の状況には非常に個体差があることなどが、臨床的に承認されるようになったが、酸素と本症との関係はいまだ研究途上にあって正確な相関関係はわかっていない。また一部の医学者は、酸素よりも先天的素因を重視し、本症が以前から時々報告されていた先天性襞状網膜剥離あるいは先天性束状剥離にほかならないという見解を発表しているものもあり、結局未熟児網膜症の発生原因、発生機序はいまだ明らかではない。

(四)  予防および治療方法

(1) 一九五〇年から一九五五年頃にかけて、アメリカその他の諸外国で発生原因について諸説が唱えられたのに伴って、その予防についてもいくつかの方法が提唱された。すなわち、保育器内の温度、湿度の調節、ACTHあるいはコルチゾン等副腎皮質ホルモンの投与、ビタミンEの投与、低脂肪食の推奨、塩類に富む牛乳栄養の制限、貧血防止のための輸血その他であるが、特に失明児の発生を防止するうえで顕著な効果を示したのは酸素供与のきびしい抑制であった。これによってそれまで大量に発生している失明児がほとんど発生しなくなったことは前にふれたとおりである。酸素の使用制限以外の前記予防方法については、その効果について諸説があり、確実な効果が実証されたものはないといっていい状態であった。

(2) 日本において昭和四一年までに出版された文献は、予防方法としてつぎに述べる酸素補給の適正な管理のほか活動期にある初期変化に対してはACTH、副腎皮質ホルモン、蛋白同化ホルモン(デュラポリン)の投与などを記載しているが、わが国では具体的に臨床例が乏しかったため、これら文献の記載も外国文献の紹介という段階にとゞまっていた。たゞ酸素補給に関しては一般につぎのようなことが指摘され、昭和三五年以前から小児科医あるいは産科医の間にかなり広く認識されていた。すなわち、未熟児殊に一五〇〇グラム以下の低出生体重児については、被告主張のとおり、呼吸障害症候群を伴う場合が極めて高率を示し、これを回避するために酸素の供与はその保育上不可欠であるところ、未熟児網膜症の予防という観点から、一九五六年(昭和三一年)ごろから世界的に酸素濃度を四〇パーセント以下にとゞめるようになったことに鑑み、保育器内酸素濃度は四〇パーセント以下にとゞめること、投与をはじめた以上急激な酸素補給の中止は危険であるから漸減して中止すること、の二点である。しかし、酸素を投与するか否かの選択の基準については昭和四二年当時においても見解がわかれ、その一つはチアノーゼとか無呼吸発作のある場合に限って、しかも短時間に限って投与すべきであり、例外的に高度の未熟児については出生直後の短期間(例えば一五〇〇グラム以下の場合七二時間まで)投与する、といった見解であり、他の一つは、ひとたび無酸素症に陥れば無酸素性脳傷害や無酸素性脳出血を起す可能性があるから、これらの危険を防止する意味から、原則としてチアノーゼや呼吸困難のない未熟児に対してもすべて酸素を供給すべきだという見解である。わが国の一般小児科医がこれに依拠していたと認められる東京大学医学部小児科教室が出した高津忠夫監修「小児科治療指針」(昭和四〇年一二月改訂第五版)も後者の見解に立ち、「酸素を与える期間は、生下時体重に従ってほゞつぎのように定めている、すなわち生下時体重一二〇〇グラム以下の場合二~三週間、一二〇一~一五〇〇グラムの場合一~二週間、一五〇一~二〇〇〇グラムの場合三~七日間、二〇〇〇グラム以上の場合は一日を大体の目やすとしている」旨記述している。さらに、未熟児網膜症が先天性襞状網膜剥離にほかならないとみる立場からは、以上の見解よりもよりゆるやかに、「酸素濃度は六〇パーセント以下とし通常四〇パーセント程度にとゞめる。四〇パーセント以下にとゞめ極端に長期にわたらぬように注意すれば、酸素治療は大して危険を伴うものではないと考える。チアノーゼのあるときは、短期間一〇〇パーセントの酸素を用いても血中の酸素分圧は上昇しないから危険は少ない。」として酸素の使用を制限したために起る弊害を警告する意見も発表された(馬場一雄「未熟児の保育」昭和四一年一一月)。

しかして、この酸素濃度に関しては、一九六〇年(昭和三五年)すぎごろから、未熟児網膜症にとって重要なのは環境酸素濃度ではなくて、動脈血(正確には網膜動脈血)中の酸素分圧(酸素張力ともいわれる)であり、呼吸障害症候群の症状がある新生児においては、肺内外に酸素吸収障害があって環境酸素濃度を一〇〇パーセントにしても血中酸素分圧はそれほど上昇しないことがアメリカなどで指摘されるようになった。こゝに環境酸素濃度のもつ意義は多分に薄らぎ、未熟児網膜症の予防という見地から適確な酸素供給管理を行おうとすれば、常に対象児の血中酸素分圧を測定しつつ実施することが要請されることになるが、昭和四二年当時わが国においてそのような酸素の供給管理が行われあるいは行いえた施設は皆無に等しい状態であり、新生児の血中酸素分圧は環境酸素濃度に対して個体差が大きいため一般的にとらえることはむつかしいこと、同一児でもその時々の健康状態に応じて刻々変化すること、血中酸素分圧の継続的測定自体が技術的に困難を伴うことなどの問題があって、いまなお将来にわたる研究課題となっている。

前記国立小児病院の植村恭夫、奥山和男らは、酸素供給に関してはどちらかといえばこれをきびしく制限する見解に立つものであるが、同人らが昭和四〇年同病院開設から昭和四六年上半期までに手がけた未熟児(多い年で一〇四名、少い年で六五名)には、定期的な眼底検査の結果、多い年で一六パーセント、少い年で五パーセントのものに本症の発生が発見され、在胎期間三二週以下、生下時体重一六〇〇グラム以下の未熟児にはほとんどといっていゝくらいの発生が認められた。このことからすると、酸素の供給を相当にきびしくしても、本症の発症自体はこれを予防することがむつかしいということができる。

(3) さて、昭和四二年四月当時前述の酸素補給管理に関する一般的予防措置以外に、日本の医学界が未熟児網膜症に対してどのような対処のしかたをしていたかについてみるに、昭和四一年前述したように植村恭夫らの警告によって、それまで酸素供給上の一般的注意(濃度を四〇パーセント以下にとゞめ、急激な中止をさけること)さえ怠らなければ、発生の危険はないように考えられていた未熟児網膜症が、現実には相当数発生し、これが看過されて失明に至っている例のあることが、一部の眼科医あるいは小児科医には知られ始めたが、いまだ一般的、臨床的に認識されるには至らず、したがって特段の予防対策的措置を講じている施設あるいは医師は、極く少数の例を除いてなかったということができる。植村、奥山ら少数の眼科医や小児科医は、国立小児病院等において早期発見、早期治療の理念から、担当する未熟児について一週間に一度程度の眼底検査を実施し、眼底に初期変化を発見したものについては、ACTH、ステロイドホルモン(副腎皮質ホルモン)、血管強化剤、止血剤等の投与療法を行った。しかし、これらのホルモン剤その他の薬剤投与がどの程度の効果を上げえたものかは、もともと本症の八〇~九〇パーセントがこれらの投与なしでも活動期の任意の時点で進行を停止し、自然治癒するものであるため、結局わからないまゝである。たゞ、これらの措置を講じても、国立小児病院では昭和四〇年一一月の発足から昭和四六年夏までの間に瘢痕期にまで症状が進行する例が毎年一名程度は発生し、完全失明に至った例も若干ある。

植村恭夫らが提唱した定期的眼底検査は、発症を早期に発見し、症状が瘢痕期にまで進行するのを防止するうえで、酸素供給管理その他の内科的、眼科的に多少なりとも希望のある処置を講じようというねらいに出発するものであったが、これが未熟児保育施設において広く実施されるようになったのは、昭和四五、六年以降のことである。その遅れた理由は、本症発見のための眼底検査は、対象が未熟児であるため成人の場合に比して検査の器具や方法が制限されるうえ鑑別上の眼科的知識と技術を要するため、一般産科医や小児科医では満足な検査ができないこと、ところが眼科と小児科あるいは産科とは、わが国ではいわばそれまで全く領域を異にする分野として、両者の間には臨床的連携の経験がなかったため、若干の綜合的施設を除いて、一般に産科医や小児科医が眼科医に協力を求めることが事実上困難であったことなどが主要なものである。そしていまなお、眼科医によっても本症発見のための眼底検査は技術的に容易でなく、眼科医の協力を得て定期的眼底検査を実施している施設なり病院でも果してどこまで正確な検査が行われているか疑問なしとしない状況にある。

また、眼底検査の結果、未熟児網膜症の発症が発見された場合、これに対して関係医師らのとった通常の方法は、昭和四五、六年ごろまでステロイドホルモン、ACTHの投与等であったが、事柄の性質上試験的治療行為ができないため、その効果についてはいまだこれを実証するまでに至っていないことは前述のとおりである。たゞ、昭和四三年ごろ天理病院(証拠上明らかでないが天理よろず相談所病院を指すものと思われる。)の永田医師らの手によって、世界に先がけて光凝固法と呼ばれる治療方法(活動期の第二期から第三期にかけてのころ、網膜に増殖した血管を焼くことによって、それ以上の進行を防止する方法)が開発され、昭和四四年中に三名、翌四五年中に七、八名の未熟児がこの方法による治療を受け、目下唯一の期待できる治療方法と目されるに至った。しかし、必要機器の施設費が高いため一般的普及が困難であること、治療上高度の技術を要すること、施療に伴う副次的作用(後遺障害がのちに発生する危険)の有無が確定していないことなどなお将来にいくつかの問題を残している。

概略以上のように認められ、右認定を覆えすに足る証拠はない。

3  原告好澄の失明と酸素投与との因果関係等

被告白井の過失を問題にする前に、以上に考察したところによって、原告好澄の両眼の視力喪失という結果の発生が、同被告の酸素供給管理に関する措置に原因するものか否かの点について考えてみる。酸素の投与なしに未熟児網膜症が発生した事例の報告されていることはさきに認定したとおりであり、本症を相対的低酸素傷害だという見解に立てば、原告好澄についても前認定の出生時の経緯に徴して、あるいは出生前に酸素不足を招来した事由があった疑いも全くないわけではないが、他方、名古屋市立大学眼科学教室の馬嶋昭生が昭和四三年九月専門誌「眼科」一〇巻九号に発表している、過去数年間に同大学小児科の未熟児管理を受けたものゝうち受診を申出た四五名について同年夏実施された追跡調査の結果によれば、そのうちの三名は酸素療法を受けることなく発症の痕跡をとゞめているが、酸素療法を受けたものに比してその予後は良好で、瘢痕が最も軽微であることが認められる。右報告例や酸素療法によって本症が誘発されるという一般に肯認されている臨床上の結論を綜合すれば、原告好澄について発症の最も大きな因子となったのはその未熟性にあったとしても、失明に至るまで症状を進行させ、または進行を助長させたのは被告白井の酸素療法であった蓋然性が高い。すなわち、被告白井の行為と原告好澄の失明の間に因果関係を推定することができる。しかし、後にもふれるとおり本件においてはその発症の時期を確定するに足る証拠は見い出せない。

4  被告白井の過失の有無

さてそこで、未熟児網膜症に関する前述の医学的知見ないしわが国における臨床的実態に徴して、原告好澄に対して被告白井がとった措置または不措置に、原告ら主張のような過失が認められるか否かについて検討を加える。

(一)  予見義務違背の点について

原告らは、原告好澄に対して酸素療法を実施する以上被告白井は当然好澄に未熟児網膜症の発生、ひいては失明という結果の発生を予見すべき義務があるのにこれを怠ったと主張するところ、≪証拠省略≫によれば、同被告は、原告好澄の診療保育を担当した昭和四二年四月から七月にかけてのころ、抽象的には、R・L・Fないし未熟児網膜症という疾病のあることおよびそれが未熟児に対する酸素療法との関係で問題にされてきたものであることは知っていたが、具体的に、原告好澄に未熟児網膜症が発症し、その結果失明するに至るというようなことは全く考えてもいなかったものと認められる。しかし、結論からいえば、当時小児科医たる被告白井が、未熟児網膜症殊に失明という重大な結果の発生を具体的に予見しなかったからといって、過失ありということはできないと考える。けだし、第一に昭和四二年四月当時は、植村恭夫らがわが国において全く安全のように思われて広く行われている未熟児保育においても発症のありうることを警告して半年あるいは一年経ってはいたが、いまだそのような認識が一般化するには至らず、わが国小児科医の平均的認識においては、極端な酸素供給をしなければ発症はないと考えられていたこと前述のとおりであり、医学上の所見にあっては、従来の観念を破る所見が発表されても、いまだ一部の眼科医、小児科医によって追試が行われている段階においては、その所説を前提として直ちに一般化し医師の予見義務を設定することはできないというべきであり、第二に≪証拠省略≫によれば、被告白井は長崎大学医学部を卒業後数年間同学部小児科教室に勤務したのち、昭和三九年七月一日から長崎市立市民病院に勤務したものであるが、その間大学で未熟児網膜症について教授を受けあるいは具体的臨床例について研究する機会は一度もなく、市民病院においても失明児が出た事例は本件がはじめてであることが認められ、同被告が個人的経験から未熟児に対する酸素療法に際して本症の発生を予見しうべき立場にあったともいえないからである。

なお原告らは、本症の存在が知られ研究の基礎が与えられている以上、小児を取り扱う医師たるものは当然これについて十分研究すべきであり、これをしていれば予見できたはずだと主張するが、一般的な医師の姿勢の問題としてはもとよりそのようにいうこともできようが、当時、わが国で閉鎖式保育器により酸素を投与してする未熟児保育が行われるようになって以来一〇年余を経ていたにもかかわらず、その間、酸素療法との関係で視力障害あるいは失明を招来したという具体的臨床例の報告が皆無に等しかったことに鑑みると、臨床医である被告白井が本症について特段の研究をしなかったことをもって、法的な過失を認めえないことも明らかである。

(二)  酸素供給管理上の過失について

もっとも、具体的予見を欠いたことをもって過失ありといえないということは、その後の一切の医療上の措置について被告白井に当然の免責を与えるものではない。すなわち、原告好澄の失明の結果について、酸素投与がなんらかの形で寄与していることが認められる以上、当時未熟児網膜症の予防という見地から未熟児の保育医療上一般に承認されていた酸素供給管理上の注意事項に欠けるところはなかったかという問題は、なお検討を要するところである。けだし、未熟児網膜症の発生機序あるいはこれと酸素の関係がいまだ明らかでない現在の段階では、一般的に言って、患者に対する酸素投与が失明という結果発生になにがしかの原因となっているとしても、結局どの時点におけるどのような酸素供給管理上の措置が、発症にいかなるかたちで寄与したのかを明らかにすることはできないわけであるが、このような場合当時の医学界における水準的知見に明らかに反する措置がとられたことが認められゝば、それが結果発生の原因でないことについて反証のない限り、これをもって原因行為と推定して差支えないと考えられるからである。そこで、本件における酸素濃度、供給時期および期間、中止の際の濃度漸減措置を中心に検討してみる。

まず酸素濃度という点からみると、被告白井が原告好澄に供給した酸素は最も多く保育器内に放流したときで五リットルであるところ、≪証拠省略≫を綜合すると、放出酸素量と器内濃度等の関係についてつぎの各事実が認められる。すなわち、周知のとおり空気中には約二〇パーセントの酸素が含まれているが、好澄に用いられたような保育器では純粋な酸素と共に空気が取り入れられており、おゝざっぱに言って一リットルの酸素を放流すれば器内酸素濃度は五パーセント程度上ること、しかし、器内濃度は必ずしも酸素放出量に比例するものではなく、器内にある児の呼吸状態、体温その他によってかなり差があること、長崎大学医学部附属病院が原告好澄に用いられたと同型の保育器によって保育を行った昭和四一年四月から翌四二年九月までの事例のうち十数例について診療録に記録されている酸素放出量とそのときにおける器内濃度(ヘップマンの酸素濃度測定器によって測定された濃度)の関係は、平均して、放出量五リットルのとき器内濃度は三五ないし四〇パーセント、四リットルのとき三二ないし三五パーセント、三リットルのとき三〇ないし三二パーセントであることが認められる。しかして、本件において五リットルないしこれに近い量の酸素が供給されたのは、原告好澄にチアノーゼ、呼吸停止、心音緩徐等の重篤症状があらわれた五月一三日と同月一六日の一定時間内の例外的措置としてであり、入院直後から約二〇日間にわたって継続した酸素供給量は二リットルまたは一・五リットルであるから、その器内酸素濃度は平均三〇パーセント前後のものであったことが推認される。してみると、未熟児網膜症の予防的見地から酸素濃度を四〇パーセント以下にとゞめるという基準は全期間を通じて一応守られていたということになる。そして、呼吸障害を伴った時期における前記供給量は、近時の血中酸素分圧に注目する見解からは、決して高濃度酸素とはいえないことになる。

つぎに、入院時において呼吸困難、チアノーゼ等の症状がみられなかったのに直ちに酸素補給を開始したこと、その供給量は、入院日から一週間は二リットル、その後一三日から二三日までは一・五リットルに、二四、二五日の両日は一リットルに、二六日には〇・五リットルに順次切り下げられてはいるが、その供給期間が継続して二〇日余りの長期にわたっていることについて、各措置の必要性あるいは相当性が認められるかという点が問題となる。しかし、≪証拠省略≫によれば、未熟児の死亡率、死亡原因等に関してはほゞ被告の主張どおりの事実が認められるのであり、したがって入院時およびその後の全身状態に照して原告好澄についても呼吸障害症候群に陥る危険すなわち死亡または脳性麻痺に陥る危険が高度に認められること、前述のとおり当時酸素供給に関する医学的見解にも幅があって必ずしも定説というべきものはなかったことに鑑みると、被告のとった右措置は、いまだ医学界の常識にはずれているとは認め難い(なお、前掲馬嶋昭生の追跡調査では、酸素供給期間と症状の程度の間には有意な関係を認めなかったことが報告されており、鑑定証人植村恭夫も、本症に酸素の投与期間が非常に関係することを認めつゝも個体差が大きく定型的因果関係は認められない旨供述している)。一旦酸素投与を中止したのち、チアノーゼあるいは呼吸困難の症状に応じて再び投与した五月六日以降二〇日の中止に至るまでの酸素供給上の措置についても、いまとなってはその必要性が必ずしも明らかでない点が全くないわけではないが、右と同様に評価される。

酸素の供与を中止するときは、これを一度に中止することは危険で投与量を漸減すべきことが当時言われていたが、被告白井が右に準拠した措置をとっていることは、この点についてさきに認定した事実によって明らかである。

以上を要するに、被告白井の酸素供給上の措置は、従前の酸素供与基準でもなお未熟児網膜症の発症例のあることを認識して、より厳しく酸素投与を制限しようとしていた一部の医学者らの基準からすれば、原告ら主張のように供給過剰と評しうる余地もあるが、未熟児医学に関する全体的見地からすれば、いまだ医師の臨床上の選択裁量の範囲内にとゞまる措置というべく、水準的知見にもとる措置であったとは認め難い。

(三)  定期的眼底検査を怠った過失について

原告らは、被告白井が原告好澄に対して酸素療法を採用しながら、未熟児網膜症の早期発見早期治療のための定期的眼底検査を実施しなかった過失を強調するところ、≪証拠省略≫によれば、同被告は当時未熟児網膜症の予防発見目的からする定期的眼底検査については、その必要性や検査の方法などについて全く認識するところがなかったこと、したがって原告好澄についてもその入院期間中を通じて一般的健康管理の見地から一、二度市民病院小児科備え付けの直像検眼鏡を用いて眼底をのぞきみた程度で、それ以上未熟児網膜症の予防または発見のために意義のある眼科的処置を講じることはなかったことが認められる。しかしながら、前述のとおり、植村恭夫らの提唱した定期的眼底検査の必要性を認めて当時これを実施していたのは極く少数の施設においてゞあり、しかもそういう施設でも産科医、小児科医の力ではこれをなしえず、その方面にそれなりの研鑚を積んだ限られた眼科医の協力を得てようやく実施しうるものであったこと、当時の医学界は、たとえそのようにして未熟児網膜症の発症を発見したとしてもこれに対して効果の実証された治療法を持たない段階にあったことに鑑みれば、一年ないし半年前から一部の医師によって定期的眼底検査の必要性を説く見解が発表されていたのにこれを知らず、右所説に副うような措置をしなかったことをもって、被告白井に過失ありということはできない。けだし当時における眼底検査は未熟児の保育医療上確立された附帯措置とはいまだ言えないからである。

なお、被告らは、被告白井が眼感染の有無等を調べるため、四月二五日、五月一七日および退院前の七月四日それぞれ眼底を検査し異状を認めなかった旨主張するところ、≪証拠省略≫にはこれに符合する趣旨のものが窺われるが、その点診療録上なんらの記載もなく、これらの供述をそのまゝ採用することにはいさゝか躊躇せざるを得ない。そして、日時の点は別としても事実主張のように眼底検査をし、かつそれが慎重に行われたのであれば、少くとも退院する日までには好澄の眼に何らかの異変を発見していてもよいと思われる点がないではない。すなわち、原告勇夫本人は、好澄の眼が入院中から非常に飛び出ていたことと、退院した日その眼が猫の目のように光った点で異常に思っていた旨供述していること、日本眼科会雑誌第五九巻第七号(昭和三〇年七月一〇日発行)に長崎大学眼科の吉岡久春によって発表された、剖検の結果R・L・Fだと鑑別したという床例報告書中に「生後三ヶ月ごろから母親は子の瞳孔領が猫の目のように光ることに気づいたので当科を訪れた。」という記述のあることを綜合すると、原告好澄はおそくとも退院までには発症し、症状も網膜に灰色の混濁を生じる程度以上に進行していたのではないか、したがって普通の小児科医である被告白井でも退院間際の時点になれば、眼底に進行した病変を発見することはさして困難ではなかったのに、眼底検査をしたといいながら異状を発見しなかったということは、不注意にもこれを看過したのではないかという疑問が残るのである。しかし、原告勇夫のいう眼球が飛び出していたという点については、証人奥山和男は未熟児網膜症の症状としてそのような症状はない旨供述しており、原告美和子本人は、原告好澄の眼は退院当初白眼が非常に多いように思われたが、一、二週間のうちに別段異常を感じなくなりその後二ヶ月ばかりはどうということもなかった旨供述していて、退院した当初については異常を感じたとする点が原告勇夫とは一致せず、原告勇夫の供述をもってしてはいまだ好澄の発症が退院前で退院時までには相当進行していたと断定するに十分でない。また、仮に退院前すでに発見しうる程度にまで症状が進行しており被告白井がこれを看過したものだとしても、当時右の程度にまで進行した症状に対する有効適切な治療方法はなかったのであるから、右看過をもって本件失明の原因をなす過失ということはできないであろう。

(四)  結語

以上の考察によれば、原告らが、被告白井が市民病院の眼科医三島恵一郎に対して原告好澄の定期的眼底検査を依頼しなかったこと、あるいは長崎市に対して市民病院における小児科と眼科の連携体制の確立を要請しなかったことをもって過失とする点や、被告白井において発症を認議したことを前提として治療措置を講じなかった過失を言う点、具体的予見を前提として退院時における指導説明義務違反を言う点等については、もはやこれを問題にするまでもないことになり、結局被告白井の過失を肯認することはできない。よって、原告らの同被告に対する本件損害賠償の請求は、損害の点について判断するまでもなく理由がない。

四  被告長崎市の責任について

まず使用者責任の存否について判断する。被告長崎市が市民病院を設置経営するものであり、被告白井を小児科の医師として医療業務に従事させていたものであることは当事者間に争いのないところであるが、被告白井に原告好澄に対する保育医療上の過失が認められないことはすでに説示したとおりである。そして本件では、原告好澄に対する酸素投与は、酸素不足により死亡しあるいは脳傷害に陥る危険が極めて高かった好澄をその危険から救うためにとられた措置であること、さらに当時の一般的医学水準からすれば本例のように例外的に発生する失明という結果発生を防止することはむつかしかったことを考え合わせると、原告好澄の失明の結果は、被告主張のようにやむを得ざる結果というほかないと思われる。

また被告長崎市の設置する稲佐保健所の所長が医師、保健婦らをして原告ら方を訪問指導させなかったという義務懈怠の点は、原告好澄が生後三ヶ月間も市民病院小児科に入院して専門的な未熟児保育を受けて退院したことに鑑みれば、母子保健法第一九条にいう「養育上必要がある」場合に当らないと解される。しかして、≪証拠省略≫によれば、同保健所の保健婦が原告好澄退院後原告ら宅を訪問したことのあることが認められるが、右保健婦らに未熟児網膜症の初期変化の発見を期待することのできないことは明らかである。この点に関する原告らの主張は失当である。

してみると、被告長崎市の民法第七一五条に基づく賠償義務は否定せざるを得ない。

そこでつぎに過失責任について考察する。原告らは、長崎市立市民病院は総合病院であるから、小児科に保育器を備え酸素を補給して未熟児を保育する以上、被告長崎市は酸素の影響でR・L・Fあるいは未熟児網膜症の発症をみる患者のあることを予見し、眼科医が協力して定期的に眼底検査を実施できる医療体制をとるべきであったのにこれをとらなかったことをもって、被告長崎市の過失責任を主張する。しかして、長崎市立市民病院が総合病院であること、昭和四二年四、五月当時同病院眼科に医師三島恵一郎が勤務していたことは当事者間に別段争いがなく、≪証拠省略≫によれば、同病院でも昭和四五、六年ごろから眼科医による定期的眼底検査を実施するようになっていることが認められる。しかし、昭和四二年四月から六月にかけての時点では、眼科医による定期的眼底検査の必要性は一般にほとんど認識されていず、これを実施していたのは植村、奥山らの勤務する国立小児病院あるいは同人らと密接な連絡を保った一部の施設などにすぎなかったことはすでに明らかにしたとおりであり、被告長崎市に当時未熟児網膜症の発症を予見して原告主張のような診療体制をとゝのえることを期待することが無理なことであったことは、以上に説示したところから明らかであろう。原告らのこの点の主張も採用できない。

五  結び

以上の次第で、原告らの損害についてふれるまでもなく本訴請求はいずれも理由がないのでこれを棄却することゝし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 権藤義臣 裁判官東条宏、香山高秀は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 権藤義臣)

<以下省略>

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